ゆとろぐ。

1991年生まれのゆとり世代の雑記ブログ。

『羊と鋼の森』を読んで考える音楽と言葉。

 『羊と鋼の森』は凄く面白かった。

羊と鋼の森

羊と鋼の森

 

  すとん、と胸の中の収まるべきところに収まっていくような文体で、あっという間に最後のページに辿り着いていました。

 放課後の体育館で「秋の夜の森のような音」に出会った外村が、調律師になって、迷いながらも少しずつ成長していく過程を丁寧に描いた小説です。言葉一つ一つが印象的で、小説と詩の合間みたいな読み心地です。

 片付いた部屋で、夜になってから静かに読みたい本です。

 今年度の本屋大賞受賞とのことなので、興味がわけば是非読んでみて下さい。

 

音を言葉で表すということ。

表現は限りなく多様。

 秋の、夜、だった時間帯が、だんだん狭く限られていく。秋といっても九月、九月は上旬。夜といってもまだ入り口の、湿度の低い、晴れた夕方の午後六時頃。町の六時は明るいけれど、山間の集落は森に遮られて太陽の最後の光が届かない。夜になるのを待って活動を始める山の生きものたちが、すぐその辺りで息を潜めている気配がある。静かで、あたたかな、深さを含んだ音。そういう音がピアノから零れてくる。 (本文より引用)

 昔ちょっと吹奏楽をやっていた私にとって、「音を言葉で表す」というのは慣れ親しんだことであり、鬼門でもあります。他人に伝わる表現難しい!

 頭の中で鳴っている音そのものをパーンと鳴らして共有できれば良いのですが、そんな技術はない! ので、先に言葉を通じてイメージを共有し、メンバーで共有したイメージに沿う一音、フレーズ、和音を目指して練習を重ねていきます。

 たとえば、形容詞を使うことがあります。「重い」「軽い」「硬い」「柔らかい」「甘い」「切ない」「堂々とした」「張り詰めた」などの形容詞を並べて、こういう音を鳴らせ、と言ったり言われたりするわけです。

 擬音語も使います。「パーンッ」「とーん」「ぅわあーん」「タリラリラッ」などを、アクセント目一杯つけて音程つけて指示や会話の中で飛び交わせるわけです。声の表現力がモノを言います。比較的、誤解なく意図する方向が伝わる可能性が高いです。

 擬態語も使います。「しっとり」「きらきら」「さらさら」「ゆらり」などです。擬態語はかなり解読難易度が高い方だと思います。さらさらした音って何だよ‼︎ ってなります。きらきらした音という表現を好む人を知っていますが、私はそれを聞くと即座に脳内にグロッケンの音が鳴り響いて管楽器への変換がききません。

 引用部分のように、風景描写や心理描写が始まることもあります。「薄く雲がたなびいた夕焼け空みたいな」「切なさを我慢して、高まって高まって、突然解放されるような」などです。曲そのもの、もしくはフレーズをこう吹いてほしい、と要請するときに使われやすいです。

 なお、精密な描写的表現を好む人は、頭の中ですでにイメージが具体的な音として鳴っている場合が多く、他の人と意見が対立した場合でも折れない人が多い印象です。メンバーの中に二人も三人もこういう人が居ると、調整に難航します、が、場が詩の朗読会の様相になって楽しいです。

音楽は凄く精密な言葉。

 さて、引用部分は、調律中のピアノの、何度も繰り返される単音の、最終的に到達した音色を表すために189文字使っています。これ擬音語に起こすと「ポーン」です。「トーン」かもしれませんが。三回繰り返しても「ポーン、ポーン、ポーン」です。

 何が言いたいかというと、たかが「ポーン」を表すために、言葉に起こすと何文字費やしても足りやしない! ということです。たかが「ポーン」ですよ!

 でも、これがもし、主人公と同じように、ひとけのない体育館の隅に居て、実際に調律師が鳴らす音を聞いたら、その「ポーン」だけで189文字費やされた「秋の夜の森のような音」だということが瞬時に実感できるんでしょう。

 厳密には、全員がその音を聞いて「秋の夜の森」を想像するかというとそんなことは決してないでしょうが、「秋の夜の森」と共通性のある、そのピアノのその音の纏う、一種の空気感的なものを理解できるんだろうな、と思います。

 音楽は万国共通の言葉である! と言いますね。日本語で「悲しい」って言ったり書いたりしても、日本語知らない外国人には通じません。でも、日本で作られた悲しい曲を聞いてもらえば、極論日本を知らない外国人にも「悲しい」だけは通じます。

 個人的には、音楽は、ただ万国共通であるだけでなくて、凄く精密な言葉なんじゃないかと考えています。言葉では伝えきれないぐらいの細かなニュアンスまで、その一音、フレーズ、和音が表現できる場合がたくさんあるような気がします。

 たったの一音に189文字もの情報量が含まれているとしたら、一曲の情報量はどれだけ膨大になるんでしょうか。

 自分がちゃんとそれだけのことを受け取れているのかな、というのも疑問ですし、音楽を本当に細部の細部まで受け取れるようになったら、それだけで人生が変わりそうです。

 少し話が変わりますが、聞いたところによると、人間の脳は老化によって確かに衰えるけれども、抽象的なものを捉えたり表現したりする能力は、年を経るほどに研ぎ澄まされていくそうです。そして、指揮者などはその筆頭で、年輪を重ねるほど、より深みがあり、繊細な表現をすることができるようになっていくとのことでした。

 『羊と鋼の森』の著者も、五十歳も間近になってくるぐらいのお年とのことで、だからこそ音楽と言葉を結びつけて収めるような文章が綴れるのかな、と思いました。

 きっと音楽を聴く能力というのも年をとればとるほどに育っていくものなのでしょうね。

 そう思うと、何だかこれから年をとっていくのが楽しみです。

 結論、音楽は聴くのも吹くのも読むのも好きです。改めて、やっぱり好きだー音楽好きだー! って思いました。

 これからもたくさん音楽聴いてたくさん本を読みます!